「偶然」はあるのか
結論から言うと、神様の道(神の子とされた者の歩む道)に偶然はありません。
しかし、多くの人は、自分の身の回りで起こる出来事や人との出会いなどを偶然だと考えたり、運の良し悪しで自分の都合の良いように解釈したりします。あるいは、極端な運命論を求めたりもします。そうして、それによって一喜一憂します。
ここで、自分がなぜ生まれてきたのかという問いの答えを考えてみてください。本当に偶然なのでしょうか。全世界の全ての人は、偶然生まれて、偶然、その時代、その環境の中にいるのでしょうか。もし、偶然だと言い切るならば、やるせなさや虚しさを感じる人が大勢いるでしょう。
聖書では、主なる神様が天地万物をお造りになり、私たち人間も、一人一人、前もって計画してお造りになったと言っています。新約聖書のヨハネによる福音書9章2~3節には、弟子のある問いかけと、それに対するイエス様の答えが記録されています。
「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」
ここで出てくる資格障害者が視覚に障害があるのは、偶然でも、誰かの罪のせいでもなく、神様の業が現れるためだというのです。神様はその摂理の中で、私たち一人一人の人生においても素晴らしいご計画をお持ちなのです。そしてその計画は、時に私たちが弱さや欠点だと考えているところをも、主が用いて成し遂げてくださるのです。
私たちの人生に偶然はありません。無意味なものごともないのです。新約聖書のエフェソの信徒への手紙1章4~5節をぜひ心に留めてください。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」 この神様に出会い、信じるとき、自分の存在の意味、人生の意味、生きる意味を見出すことができるのです。