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偶像か神様か

この世には真の神ではない「偶像」がたくさんあって、数えきれないほど様々な姿形をしている。「偶像」の「偶」という漢字には「ひとがた」という意味がある。「偶像」は「偶像」であって、神ではないし、神になりえない。偶像には命もなく、人格的でないにも関わらず、多くの人はこれを無視できない。賽銭でも投げて何かを願ったりする。

 偶像は理性を麻痺させてしまう。理性と知性を持っているはずの人間が、偶像相手には非論理的になってしまうのだ。目には見えないものにどれだけ騙されているのか、私たちは一度自分自身を振り返ってみる必要がある。

 クリスチャンも同じだ。聖書を土台として信仰生活をしながらも、常に偶像に騙されているように思う。ティム・ケラー牧師は、『偽りの神々』という著書で、「『自分』という存在が最も大きな偶像になりえる」と話している。この著書にはまたこのようにある。

 「自分が作った偶像は必ず自分を裏切る。偶像とは何か。それが何であれ、あなたにとって神様よりも重要になっているものであり、何であれ、あなたの考えの中を神様より大きく占めているものだ。神様が与えてくださるものを他のところから得ようとするならば、そこも偶像だ。あなたの限界を認めますか。」

 例えば、自分があたかも「神」かのように一番感させてしまうものは、成功だ。自分の安全と価値は自分自身の知恵と力、行いにこそかかっているという考え方だ。事がうまくいけば、成功してナンバーワンになれば、自分が最高、一番になったということだ。このような自分の成功によって自分が心の安定を得ているとしたら、それは、成功が偶像になってしまっている兆候だ。

神様の恵みを忘れ、必要としなくなった時、私たちは神様以外の何かを偶像にしてしまっているのだ。  クリスチャンの方々は、自分が何かを偶像にしてしまっていないか、一度考えてみてほしい。ある人にとってそれは豊かな感情かもしれないし、またある人にとっては自分の強い意志かもしれない。私たちは神様の御言葉を土台として信仰生活をおくらなければならない。だから使徒パウロは、悪魔にすきを与えてはならないと聖書で言っている。私たちはすき(弱さ)だらけだ。だから恵みが必要だ。だから十字架が必要だ。だから主が必要だ。聖霊充満になってこそ、すきを埋められるのだ。

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